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2006年08月11日

府中郷土の森のD51

少しお仕事が落ち着いていたので、家族で遊びに行くことにした。
「府中郷土の森博物館」という施設に隣接して、交通公園があり、そこに機関車があるというので、見に行ってみることに。愚息は大の機関車好き(機関車トーマスが好きなのだが)で、相当盛り上がっていた。
まあ、チビにつきあうか、程度の気持ちで行ってみたのだが、いい意味で予想を大きく裏切られ、圧倒されてしまった。

新橋駅にある機関車と同じようなものがちょこんと展示されている、という程度のことを想像していたのだが、D51はとてつもなく大きかった。車輪の大きさが私の背丈と同じくらい。おそらく全体の高さはゆうに3mを超えるのではないか。そして、機関車と炭水車(蒸気機関車の後ろについてるタンクみたいなやつ)を合わせた長さは10m以上あるだろう。こんなに巨大な鉄のかたまりを、間近に目にすることはめったにない。(よく考えてみたら自分はD51の実物を見るのは初めてかもしれない)。とにくかくまずこの大きさには驚かされた。
昭和14年に製造され、30年間で240万kmも走ったのちにここに展示されたというこの機関車は、朽ちかけていた。少なくとも、朽ちはじめていた。この巨大な鉄のかたまりは、まるで廃墟を思わせるようなたたずまいなのである。これが、なんとも言えない気分を私にもたらした。感動、というのとは違うけれど、妙に心を揺さぶられるような感覚である。昭和生まれのノスタルジーかというと、そうではないと思う。なにかもっと普遍的な感覚のような気がする。

これはどういうことだろう?

強いて言えば、「過ぎ去った生命感」とでも言えばよいのだろうか。
かつてそこにあったバイタルな生命力と躍動感はとっくの昔に失われている。けれど、過ぎ去った時を越えて、かつての生命力の残滓が、人が引き込まれて止まない強力な存在感を生み出す。巨大な装置が朽ちていく姿は、その生命力が強大であればあるほど、強烈なコントラストを描き、私たちの心を揺さぶる...

これも、もののあはれ、なのかもしれない。
形あるものはすべて滅びる。私たちは日常それを強く意識することはないが、でも心はそれを「知って」いる。たとえ言葉で意識することがなくても、私たちはそれを感じる力を持っている...

だから、揺さぶられたのかもしれない。

では、なぜそれほど強く生命力を感じるのだろう?

それは「非効率の力」とでも言うべき力なのかもしれない。
蒸気機関という非効率な仕組み故に、輸送能力をあげるためには機関を巨大にせざるを得なかった のだろう。この巨大な装置は、一見するだけでメンテナンスに大変な労力を必要とする代物だということが感じられる。そして、石炭補給の重労働、炎熱、煙。関係者はほとんど命がけで運用していたのではないだろうか。運転台を見上げながら、私はそんなことに思いを馳せてしまった。そんな、命がけの人間が放つ生命力ほど、強さと輝きを感じるものはないのではないか。

ここには、機能美や洗練といった概念は入り込む余地がない。けれども、非効率ゆえにもたらされる生命感、存在感というものがあるのではないだろ うか。21世紀に生きる私たちの生活は便利だ。仕事にも労苦を伴う作業は少ない。命がけで仕事をしていると胸を張って言える人が、どれだけいるだろう。私には、言えない。

便利さ、手軽さ、スピード、そして効率のよさを追い求め、命がけになることのない私たちの時代は、人間が本来持っている生命力を失いつつあるのではないだろうか。

朽ちていく巨大な装置は、そんな私たちへの強烈なアンチテーゼなのかもしれない。

投稿者 zen : 2006年08月11日 23:50

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